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練馬ゆかりの文学者関連事業
五味の生涯についての解説
五味康祐 〜 中学生
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五味康祐 〜 犬と遊ぶ
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五味康祐 〜 音楽を聴く
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五味康祐の生涯

五味康祐という作家をご存じでしょうか。書店に行っても、少ししか書架には並んでいないかもしれません。大正に生まれ、戦中を一兵卒として過ごし、戦後の時代小説を開拓して一大流行作家となった人物です。芥川賞を受賞しています。58年の生涯でしたが、五味が注目した「柳生もの」は、その後の多くの作家に受け継がれ、さまざまに形を変えて生き続けています。本当は純文学を求め、詩歌に憧れ続けた五味康祐の足跡を、簡単に記してみます。

■仮名遣いについて
・仮名遣いは、固有名詞を除き、現代仮名遣い、新漢字を原則としますが、引用文等は発表時のままの旧仮名遣い、旧漢字の部分があります。

■氏名の表記について
氏名は、表記は 五味康「示右」(示すヘンに右) と「五味康祐」の2通り、読みについては「ごみやすすけ」「ごみこうすけ」の2通りが見られます。練馬区では、展覧会などでの表記を五味康「示右」とし、通常の事務文章中では五味康祐と表記しています。
これについては、1976年11月号の『言語生活』掲載の「人名漢字・座談会 名前あれこれ」における五味氏本人の説明を参考にしました。氏の名前は最初は「欣一」(欣吾ともいう)でしたが、その名前では相学上長生きできないとの理由から、戦争から復員した後に「康「示右」(やすすけ)」と名付けられ、戸籍上もそのように改名したということです。(名付け親は、母方の親類にあたる、紀州の尼寺の住職でした。)しかし、本人が周囲の呼び方に同調して「こうすけ」と名乗る場合も多く、一般的には「康祐(こうすけ)」とされることが多い状況です。

◆第1章 大阪という揺籃(ゆりかご)
五味康祐は大正10年(1921年)、父・五味栄一、母・寿子の長男として大阪市南区に生まれました。生まれた年に父を亡くし、母方の祖父のもとで育ちます。この、もと士族である祖父は当時、常盤座をはじめとする複数の劇場(後に活動写真館)を経営する大興業主だったので、多くの使用人に囲まれた裕福な環境の中、家に出入りする役者や芸人の音曲を聞き分け、その頃まだ珍しかったSPレコードや蓄音機、本に親しみつつ育ちました。根っからの都会っ子であり、豪奢なものと大人に囲まれ、何一つ不自由なく育ちます。家庭の事情で離れて暮らす姉・妹があり、体の弱い妹を五味は可愛がったといいます。

自身も病弱だったため、小学校の一学期間を祖母の別荘のあった姫路市佐用郡で過ごすこともありました。国語、作文、歴史が苦手で将来は技師になろうと思っていたというところが意外な感じを受けますが、手先を動かすことが好きな性分は、のちのオーディオいじりにもつながるものと思われます。

病弱な五味の体を心配した祖父は、空気のよい大阪府立八尾中学校に進学させますが、学校は休み勝ちになり、なおかつ不行跡のため退学処分になりかけます。しかしこの頃五味はすでに文学を志しており、「困難は伴うけれど独学でも文学の道を進むつもりです。」と決意を述べ、退学取消となったと、芥川賞受賞時の大阪日々新聞は報じています。

オーディオに関しては、当時最優秀といわれたウエスターン・エレクトリックや、ローラー、マグナボックスといった欧米のスピーカーを入手しては手製のキャビネットに納めるなど、家業柄とはいえ、早くもオーディオ・マニアとしてのスタートも切っていました。
後に執筆した『興行師一代』は、こうした生い立ちをモチーフにした小説です。

山岡家は、大阪の堀江と南地に五座の芝居小屋を有つ興行師である。周防町に本宅を、平野町に新宅、天下茶屋に隠居所を構えている。当主の山岡楠次郎はもと紀州家の小納戸役だったが御一新で大小を捨て、身ひとつで大阪に出てずいぶんあくどいこともしたらしい。でも、今日の大をなした。(中略)
本宅には御寮人さんと呼ばれる倅のよめが女あるじで一家をきりもりしている。邸内別棟の大部屋に旅芸人、角力取り、浄瑠璃の三味線弾きなど、居候が、少ないときで五六人、多いと十人以上もごろごろしていて、花札弄りや卑猥な色咄、時に口論するのまでいて取りしきらねばならないのだから凡庸な女では御寮人さんはつとまらない。その点、気難かしい楠次郎が本宅をまかせるくらいで、よめの卯乃は美人の上に、しっかり者である。山岡家が興業界であれだけ羽振りを利かせるのも、「お卯乃はんが居はるさかいや」と、ライバルの浅井興業の番頭(業界きってのキレ者と評判の男である)も一目おいている。『興行師一代』

もともと大阪という高い文化の土地柄…・堺の町衆、木村蒹葭堂の文人サロン、文楽の発祥など歴史的にも文化芸術の要の地で、氏の感受性が育まれたともいえるでしょう。後の五味の型紙やぶりともいうような言動は、大阪ことばで言うところの「わやく」「てんごう」と言うべきかもしれません。なお、そうした大阪的発想のひとつとして「ひねった」発想のことを自身で記しています。例えば大阪の豪商は誰も気のつかぬ、徒労とも思える豪奢な浪費の中に役職や肩書きへの皮肉とレジスタンスをこめ、「美を味わう発想の仕方に於ても、彼ら大阪商人は武士を凌駕していた。ただ人は知らぬだけだった。」(「大阪は嗤う」『日本』一九六四年六月号 講談社)と述べています。そうした発想もまた、五味文学を解くひとつの鍵かもしれません。

◆第2章 戦争体験
昭和14年、17歳の五味は早稲田第二高等学院に入学しますが、教練の出席日数不足で昭和17年には中退し、大阪へ戻ります。時局は次第に戦争へと向っていました。
 
破れた帽子に(かならず白線が入っていた)寸のつまったマントを翻し、足駄を鳴らし、寒風の中を高声に友と朗吟して歩いた―それは、日本の学生が青春を生きた一つの姿勢ではなかったかと私はおもうのだ。そろそろ戦時色が濃くなっていて、われわれことに文科生には、次第にあの《暗い谷間》が見えていた。人生いかに生きるべきかは、どう巧妙に言い回したっていかに戦死に対処するかに他ならなかった。大きく言えば日本をどうするかだ。日本の国体に、目を注ぐか、目をつむるか、結局この二つに方向しかあの頃のわれわれのえらぶ道はなかったと思う。私自身を言えば、前者をえらんだ。大和路に仏像の美をさぐり、『国のまほろば』が象徴するものに、このいのちを賭けた。―そんな青春時代が、私にはあった。(「日本のべートーヴェン」『西方の音』所収 一九六新潮社)

遺品の中の昭和16年発行の『コギト』という雑誌が1冊あります。これは文芸評論家の保田與重郎が中心となって発行した日本浪曼派の機関誌です。近代以前の日本の古典の美を拠り所とする日本浪曼派。五味は保田の『日本の橋』などを読み、この反近代・古典への回帰を主調とする思想と美学に強く魅かれ、決定的な影響を受けます。以降、日本浪漫派の文学は五味の主調となっていきました。

この昭和18年には徴用逃れのため、明治大学文芸科に入学します。日本浪曼派の発起人のひとりでもある亀井勝一郎の門弟にもなりました。8月には、教育召集のため、兵庫県の篠山連隊に入隊、重機関兵としての教育を受けることになります。一旦除隊した後、翌昭和19年に応召、ただちに中国大陸へ派遣されます。椿第168部隊に配属、はじめは機関銃中隊、そして暗号兵となります。この頃、戦地から妹にあてて送った手紙が、姫路文学館に所蔵されています。
それは多くの兵がそうであったように、家族の健康を気遣い、親の世話を頼む、「普通の暮らしの思い」に満ちた手紙です。

背嚢を枕に、篠つく雨に顔を仰向けて、全身濡れねずみになって私は仮眠した。「五味、前へ」と命令されれば銃を執って進撃した。そうさせたものは、国を護らねばならぬ意識などでは、もうない。「ねばならぬ」ではない。(『西方の音』)

苛酷な軍隊経験の中で、聴覚に異常をきたした五味は、捕虜生活を経て昭和21年、復員します。そこには、焼け野原の大阪と灰燼に帰した生家があるばかり、親族は焼け出されて京都に移っていました。

こんど帰つたらあれも聴いて、これも読んでと切望していた私の蔵書とレコードのコレクションの一切をすべて戦災で無に帰せしめたと知つたとき、私はもうすべてを失つたのだとの悲しさは、それこそ非常なものであつた。(『ディスク』1956年2月号)

◆第3章 戦後の混沌期
すべてを失った五味の、純文学への志だけを抱いて生活のための格闘をする戦後がはじまります。戦争体験は、のちに『先生哀号』『軍旗燃ゆ』などの戦争小説を生んだほか、後の剣豪小説にも影響を与えていきました。昭和21年、五味は歌人・前川佐美雄の歌集『植物祭』を読んで感激し、ひとり訪ねて門弟となります。前川佐美雄(1903〜1990年)は大和の風土の伝統に超現実主義的表現を重ね、モダニズム短歌の旗手として戦後の短歌史に大きな足跡を残した歌人です。『白木黒木』『積日』など、日本浪曼派としての斬新な感性の短歌は、五味にとって賛仰の対象でした。前川の主宰する短歌結社「日本歌人」にも入会します。また前川夫人の歌人・前川緑の叙情的でメランコリックな歌に啓示を受けました。もうひとり強い影響を受けたのは日本浪曼派の詩人・伊東静雄の詩でした。これらの詩へのオマージュと言える草稿が遺されています。小説の題名が前川緑の歌の中の言葉であったり、伊東静雄の詩の言葉であったり、彼らへの憧れは非常に強いものであったと言うことができます。純文学を志す五味の最も大切とするところ、それは「詩心」であったといえるでしょう。

そして生涯の師・評論家の保田與重郎との出会いがありました。奈良県桜井市に生まれた保田與重郎(1910〜1980年)は東京帝国大学在学中に同人『コギト』を創刊。ドイツロマン派の影響を受て一九三五年には亀井勝一郎らと『日本浪曼派』を創刊、反近代、古典回帰などを標榜した文学思潮・美学の一派である「日本浪曼派」の中心的人物となります。戦時中多くの若者の支持を得ますが、戦後は反対に批判を浴び、文学の表舞台から去ります。主著として『日本の橋』『戴冠詩人の御一人者』『後鳥羽院』『日本畸人伝』など、そして多数の詩歌を遺しています。

五味は保田に対しては、終戦と同時に世評が逆転しても終生変わらぬ尊敬を持ち続けました。保田も五味を「心やさしい、天然自然の男である。彼のやることふるまふことは、みなおのづからで作為や思惑がない。」(『現代畸人傳』)と評しました。遺品からは、保田の書、保田が愛用していたのと同じ作者の器など、その強い絆を偲ばせるものが発見されています。父親という存在なく育った五味にとって、保田は父に似た部分もあったのかもしれません。

◆第4章 千鶴子との出会いと三鷹時代
前川佐美雄・緑夫妻との出会いは、緑夫人の妹・千鶴子との出会いでもありました。後に五味夫人となる千鶴子との出会いです。しかし昭和22年、千鶴子と出会った年、五味は文学を志して上京、亀井勝一郎氏の紹介により亀井氏の近くの三鷹市下連雀で間借り生活を始めます。収入のあてのない生活です。この頃三鷹界隈では、太宰治・横綱の男女ノ川( みなのがわ) とともに「三鷹の三奇人」と呼ばれたとも言われています。

定職のない五味に、前川・保田からひとつの仕事が与えられます。それは、東京でこれはという作家を見つけてくること、具体的には、「三興出版」社の会計係として、東京に行くことでした。「三興出版」は、保田・前川が顧問をしていた奈良の出版社です。その東京派遣社員として、岡本太郎率いる前衛芸術運動の会「夜の会」のスポンサーの役割をするという仕事でした。当時東京では、岡本太郎・花田清輝・椎名麟三・埴谷雄高・安部公房らの前衛芸術運動が大きな潮流になっていました。五味はこれに仕事として身近に接することになるのですが、それだけでなく大きな影響を受けることになります。関連する芸術運動の会「世紀」にも入会していました。遺品からは、当時五味から千鶴子にあてた書簡に記された「夜の会」への接近の様子や、同時代の動きに自らの不勉強を思う言葉、「夜の会」に影響を受けたと思われる小説の草稿が発見されています。草稿には、岡本太郎がモデルと思しき人物や、西欧の芸術を移入していく思想にどうしてもなじめない主人公などが描かれています。書簡からは、自ら「夜の会」の講師も務めた可能性も浮かんでいます。のちには時代小説作家として生きていく五味の、新しい文学を模索していた時代の、知られざる事実です。五味の三鷹時代は、この「夜の会」との関係の時代でもあります。

◆第5章 音楽が結ぶもの
昭和23年秋、三興出版が解散したため、五味の派遣社員時代は約半年間で終わります。関西に戻ったものの、やはり収入の道はなく、あてのない放浪に日々を過ごすようになります。
しかしやはり文学への思いは断ちがたく、昭和26年、再度上京し、友人の下宿を訪ねながら―空腹を抱えながら―文学の道で立つ道を模索します。仕事はなく、小説は全く売れず、友人を頼るのも限度があり、その年の暮れに至って困窮が極限になったとき、幼いころから共に生きた「音楽」がひとつの縁を五味に与えまし た。

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夜になれば駅のベンチで、腹がへるとコッペパンを買って、ただ書きたいから書く、そんな私の放浪がはじまった。書いて何処へ持ってゆくという当てもない。
ふらふら大学の空いた教室へ這入って行ったり、人目のないガード下に坐り、かじかむ手に息を吹きかけて書いた。学徒出陣で私は多くの有為な友人を喪った。或る意味では、最も純粋
な青年ほどあの戦争で死んで逝ったように思う、その悲しみを、同じ時代に生き還った僕らの手で書き残しておかねばならない、そう思って書いた。
雨が降ると、もう木賃宿に泊る金さえ惜しく心細くなっ手いたので、原稿用紙を懐ろに抱え、行当たりばったりに他家の軒下にうずくまって夜を明かした。寒くて眠れなかった。(中略)
 ―あの時、私が神保町へ向って歩いて行かなかったら、併し、多分私は世に出る事もなく、何処か浮浪者の群に投じているか、哀れな行き倒れの身になっていたろう。(中略)―突然、私の耳に素晴しい音楽が聞こえた。
レコード屋の前であった。(中略)
何という美しい音か。
私は魂の浮上ってゆく感じで聴き入った。霏々と舞う雪の一粒一粒は、その音を吸い取ってしっとり重みを増して降ってくるような気がした。私の聴き馴れぬ曲だったが、こんなに美し
い音楽が世の中には在るのかと思った。(中略)すると、不意に歓喜の涙が溢れ、どんなに自分は優れた作品を今胸に抱えているかを信じる気になった。レコード屋の硝子扉に背を押しつ
け、私は空を見上げてハラハラ泣いて、聴いた。(中略)
「何してるンですか?」呼ばれて振返ると、客でなく、額の禿げ上った丸顔の中年男
が着物の着流しで硝子戸から首を出していた。店の主人だ。あまりいい音だから聴かせてもらってる、と私は応えた。するとじろじろ穴のあくほどこちらの顔を見て、「聴くなら中へお這入ンなさいよ。其処じゃ寒いでしょう」 けっして人相のいい人物ではなかったが、意外に思い遣りのある声をかけてくれた。
それが、松井さんだった。(『指さしていふ』)

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五味は、こうした縁で、神保町「レコード社」の松井氏に出会い、松井氏と親しかった、新潮社の編集者の齋藤十一氏を知ることになります。文学好きの松井氏が経営するこのレコード社は、当時は齋藤十一、檀一雄を始め、多くの文化人たちの一種のサロンのようになっていました。齋藤十一は新潮社の辣腕編集者で、この後「週刊新潮」を創刊、さらに役員となった後は「新潮社の天皇」とまで称された編集者です。この齋藤宅に、五味は毎日レコードを聴きに通うようになるのですが、斎藤は五味の文学の資質を見抜き、物心両面の援助をしました。齋藤の斡旋で、新潮社の社外校正の仕事にも就くことができ、それを機に、実家に帰していた千鶴子夫人をやっと呼び寄せます。二人が所帯を持ったたのは、練馬区下石神井の一間の貸間でした。

◆第6章 芥川賞
とは言え、いくら五味が原稿を持ち込んでも齋藤の決定は「没」続きでした。やがて齋藤から雑誌『新潮』の「同人誌特集」の枠で書いてみないかと慫慂されたのを機に、五味が経済的自立を目指して書いたはじめての小説が『喪神』でした。これが昭和28年(昭和27年下期)の芥川賞を受賞します。佐藤春夫、坂口安吾の強い推挽がありました。自身の戦争体験や、前衛芸術運動の影響など、さまざまな要素が含まれる「自殺できぬ男」を描いた小説ですが、設定を時代小説としたために、五味は全く意図しない「剣豪小説家」のレッテルを貼られてしまいます。純文学を志していた五味は、殺到する時代小説の依頼を断り、その後一年間は相変わらず校正の仕事で生計を立て続けます。

詩歌に憧れ、「優美な、純潔な、時に放埓の姿をともなった生命の流露と流露に伴うかなしみを正しくつづる」(『指さしていふ』)ことを主調とした純文学を志した五味にとって、「剣豪小説」を書くことは「売文」であり、躊躇せざるを得ませんでした。しかしながら保田與重郎の勧めもあり、受賞から一年後、漸く筆を執ったのです。

戦後、新しい時代小説が待たれていたことや、GHQにより禁止されていた武道が昭和26年に解禁になり、日本の伝統に繋がるものが求められたこともあって、五味の剣豪小説は大人気となります。『寛永の剣士』『桜を斬る』『二人の荒木又衛門』など、格調高い文章と映像的表現の作品は、ブームを捲き措きします。

◆第7章 時代を映す鏡
昭和31年、初の週刊誌『週刊新潮』が創刊され、五味の連載『柳生武芸帳』は柴田錬三郎の「眠狂四郎無頼控」とともに剣豪小説ブームを巻きおこします。高度成長期に突入した時代の五味の剣豪小説は、本能を本能のままに生きる武芸者であり、(『喪神』)、勝負の決着が読者に明示されない果たし合いであり(『柳生連也斎』)、幕府と朝廷の間に暗躍する柳生一族(『柳生武藝帳』)でした。ヒーローの存在しない武士の俯瞰図、権謀術数をめぐらす権力者としての武士、五味は「五味一刀斎」「五味の柳生か柳生の五味か」の異名をとります。
 
友矩は又、十兵衛の方を見た。それから、微かに指をふるわせ紫の紐を、解く。
スルスル両手に展げていった。
見覚えのある、くすんだ紙に所々に、墨跡のにじみ(、、、)を残して柳生門下直門の姓名が列
記されている。―
宗矩は言った。
「よいかな、武藝帳と名づくるもの、今、世に三巻ある。九州鍋島藩に一、禁中・
藪左中将嗣長卿が許に一、此処に一。―過ぐる寛永五年、高仁親王御急逝についで第二皇子の御他界にも我ら柳生者が、暗躍致した。所司代板倉どのをはじめ、幕府の警固きびしい中ゆえ忍者でなくば、御叡念を果し得ぬためじゃ。―その時の、密命を蒙った者の姓名が、その武藝帳に列挙されて居るといわれる」(『柳生武藝帳』
    
―六月桜(みなづきざくら)はさして珍重でもないが、駿府から移し植えたこれ程の大咲きを附けるの桜は、めずらしい。斬るとは以っての外である。「ちと場所柄をわきまえられい」と宗矩は言い放った。
するとこの時、家光自ら声を掛けた。
「但馬。両名の者、あの花は散らさずに、枝のみ斬ってみせるなら、宥すぞ」
といったのである。(中略)
先ず紀八郎が、太刀を腰に、白襷、白鉢巻、股立(ももだち)を取ったいでたちで庭の桜の下へ歩み寄って、しずかに立停った。そして頭上の、手頃な枝を仰いだ。一同息をつめて見まもる。一瞬白い虹が枝に懸ったと見る間に、爛漫の花をつけた枝が、紀八郎の足許へ落ちた。彼はゆっくり、その枝を拾い上げ、こちらへ戻って来る。無論、花一つ散らない。一同、あらためてその美技に酔うが如くであった。
次に清十郎が行った。(中略)やがて、清十郎は、しずかに太刀を抜くと、八双の身構えから、まるで高速度写真を見るようにゆるく一枝を斬った。枝は音もなく落ちた。清十郎は太刀を鞘に収めると、これも枝を拾い上げて、ゆっくりとこちらへ歩み出した。二三歩来たとき、一斉に、泣くが如く降るが如く全木の花びらはハラハラハラと散った―
「おお・・・・」
粛然として、思わず嘆声を洩らす一同の耳に、
「油下清十郎の勝ち」
凛とした審判の声が響いた―(吹上御殿試合の内)『桜を斬る』

将棋、麻雀、野球評論、人相・手相の「観相」ではしばしばマスコミに登場しました。
観相については、かつて、「欣一」の名を「康祐」へ戸籍上も改名したのも、幼いころの占いが原因だというのですから、非常に深く学んだようです。テレビでの観相コーナーで出演者に歯に衣着せぬ物言いをする五味を印象的に記憶される方も多いでしょう。
その姿は、大衆文化に沸騰した高度成長期の日本の姿を映しているようでもあり、また大衆への強いサービス精神を見る人も少なくありません。
そんな五味ですが、音楽評論の著書の中でひとつの予言をしています。

私は観相をするが、多分じぶんは五十八で死ぬだろうと思う。
『天の聲 西方の音』「10 マタイ受難曲」より

◆第8章 生涯の友・音楽とオーディオ
少年時代の蓄音器からはじまり、戦後、レコード社や齋藤十一宅で音楽に再び巡り合い、ついに「スーパーオーディオマニア」と呼ばれるに至る五味の生涯は、まさに「音楽巡礼」「オーディオ遍歴」の生涯と言うこともできます。しかし、それは単なる「マニア」ではなく、音楽の高い精神性に祈りを感じ、オーディオにみずみずしい芸術性を求めた、求道的な心の軌跡でもありました。五味のオーディオの象徴とも言えるイギリスのタンノイ・オートグラフを中心とするオーディオ装置は、年に数回、(財)練馬区文化振興協会の事業としてレコードコンサートを開催して公開しています。また、小林秀雄ら、同時代の作家とのオーディオを通じた交友の足跡も、遺品には遺されています。

オーディオやレコードとの格闘の日々は、音楽随想『西方の音』『天の聲 西方の音』『オーディオ巡礼』などの著作に昇華していきました。そこには長年培った卓抜な文章力と繊細な感性による、偽らざる真率な五味の生涯の真情が語られています。五味の音楽随想は、古くから日本の文学に系譜として存在する随筆文学の系譜にもつながるようにも思えます。人はどんなに芸術に支えられているか、そして小さな生活にも豊かな音楽の世界を持てることを、読む人は改めて知り、五味と語り合っているかのような気持ちにさせられます。

私が死ぬときにも、もし、天候に異変があったら、わたしはベートーヴェンのもとへ往くのだ、そう思ってくれと家内に言ってある。
『天の聲 西方の音』「12 ベートーヴェン<弦楽四重奏曲 作品一三一>」より

ベートーベンの第九交響曲について「失意と貧困のどん底で年の瀬をむかえる人は多いだろう。そんな人びとに生きる希望をあたえ励ます意味からも、師走にこれが演奏されるのは意義のあることと私は思う。私自身が、無名の文学青年でルンペン同様の流浪時代に、町のレコード店からもれてくる「メサイア」第二部(受難と贖罪)の合唱を聴いて胸をふるわせ、落涙し、再起を己れに誓ったのを忘れえない。『いい音いい音楽』「失意と貧困の人の慰め」

父がひとり静にタンノイオートグラフの前に坐り、音楽を聴いているときの表情はとても厳しい。まだ二十余年しか生きていない私に、父の音楽への姿勢を語りうるとは思っていないが、瞭らかに、父は、流れる音楽のなかに神を視ていた。(中略)父が音いじりをするとき、また、テープを編集するときは、たいがい、だぼだぼのパジャマに母お手製の毛糸で編んだ足袋。冬には、駱駝色のカーディガンを羽織り、腰紐を締め、木樵のおじさんのような格好で、蓬髪おかまいなく、胡坐をかいて一心に、テープを切ってつないだり、コードを差し換えたりしている。短気のせいか、無器用なのか、うまくいかないとよくヒステリーをおこし、ウォーッとか、エーイといった奇声が居間に聞こえてくる。すると、私と母は、またやっている、と目を見合わせほほえむ。試行錯誤の結果、気に入った音がでたときは、それはもう大喜びで、音楽にのって、親愛なるタンノイの前で踊っている。たまらなく幸福そうな表情で、そんな顔が私はいちばん好きであった。 『いい音 いい音楽』「父と音楽」五味由玞子  

◆第9章 贖罪と終章
流行作家時代の頂点とも言える昭和40年、五味は運転中に人命を奪う人身事故を起こし、起訴されました。断筆し、ひたすら家に閉じこもります。自殺しようとたができなかったといい、音楽だけがそうした五味の傍らにありました。翌年、作家仲間からの嘆願書によりようやく筆を執り、贖罪の思いに満ちた『自日没』(にちぼつより)を著し、文壇に復帰しますが、一見以前と変わらぬ原稿の量産の中にも、贖罪の思いは深く沈潜していました。

昭和54年11月、東京逓信病院呼吸器科に入院した五味は、翌昭和55年4月1日、58年の生涯を閉じました。かつて「多分じぶんは五十八で死ぬだろうと思う。」と記した死でした。自身の命終を言い当てたと人が知ったとき、遊びのように見えていた観相の中の透徹した目を感じたのではないでしょうか。未完の時代小説『初恋』『吹上奉行参上』が惜しまれます。漢語を駆使した骨太な文体、古典と呼応する和文脈、優れた随筆、飽きさせないエンターテイメント性、戦争の記録、歴史へのまなざし、現代へのまなざし、そして、生涯持ち続けた詩への憧憬。厖大な遺品が語る言葉は、没後30年を過ぎて今、ようやく届きはじめたところです。

(財)練馬区文化振興協会 学芸員 山城千惠子
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